果樹園のみで2町歩(20a=約4,000㎡)
果樹園や米作の田んぼ、土づくり場など
農地全体では4町歩(40a=約4,000㎡)
ぶどう(葡萄)
なし(梨)
かき(柿)
「ぶどう」は、実験的な栽培は各種行なっていますが、出荷ベースは巨峰メインです。
「なし」は、収穫順に「愛甘水(あいかんすい)」「あけみず」「筑水(つくすい)」(しゃきしゃきした桃のような食感で人気上昇中)「幸水(こうすい)」「秋水(しゅうすい)」(珍しい品種。非常に美味しい)「豊水(ほうすい)」「歓月(かんげつ)」「陽水(ようすい)」「あきづき」「新高(にいたか)」「かおり」(白い梨で香りがよい)。
「かき」は、「次郎柿」のみでここ豊橋市石巻地区が、栽培開始から100年の歴史を誇る世界的名産地。世界中で柿は栽培され、品種はおよそ1,000種もあります。そのほとんどがヌメリ感がある実をつけますが、「次郎柿」は、ヌメリ感がなく、しゃきっとした歯ごたえで、完全甘柿として糖度も高い優れもの。少し青い状態でも十分に甘いのが特色です。
祖父が庭師をやっており、庭木を育てる広大な土地を持っていましたが、その息子であった父が、庭師ではなく果樹園を始めました。それが岩瀬果樹園のスタートです。
父は、新城市の農業高校を卒業後、愛知県の農業実習施設である豊田市の挙母(ころも)落葉果樹園芸試験場で2年間勉強し、果樹栽培を身に着けました。やがてふるさとの豊橋市石巻西川町に戻り、果樹園の土づくりから始めて、ゼロからこの果樹園を育てていきました。当初は、柿畑も多少はありましたが、売るほどあったわけではなく、「なし」を植えて栽培面積を増やしていきました。
現在、岩瀬果樹園には、その「なし」栽培を始めたころに初めて植えた原木が存在しており、40年を生き抜いてきました。実を付ける力は衰えてきましたが、岩瀬果樹園の歴史を刻み、支えてきた大切な老木です。
近隣では、40年前(1970年初頭)には「なし」農園もあり、地域農業としては「次郎柿」よりも栽培量がありました。時の経過とともに近隣農家は「なし」をやめて「次郎柿」栽培へシフト。岩瀬果樹園は「なし」栽培に力点を置きつつ、「次郎柿」の栽培にも努めるようになりました。
30年ほど前からは、面積当たりの収穫単価のよい「ぶどう」も作り始めます。このタイミングでこの実をこう世話するという細かい手間が確実に必要な果樹で、融通が利かず、デリケート。試行錯誤と目の届く範囲に栽培を限定するなどの工夫で、お客様に美味しいぶどうをお届けできるようになりました。
果樹栽培では、昔も今も機械化はほとんど進んでおらず、人の手間でひとつひとつ細かく世話をします。今まで果樹園対策で導入した新規の機械は、収穫が終わったあと、払った枝を集めて細かいチップ状の大きさに粉砕し、それを吐き出して畑に撒くチッパーという機械、農薬散布機(SS)、草刈り機のみです。それ以外には、父が果樹園栽培を始めたころと何ら変わりはありません。逆に言えば、人の手に代わる機械化は今のところ不可能だ、ということなのかもしれません。