わたしたち岩瀬果樹園のある豊橋市石巻地区は、愛知県の東の端にあたります。
古代、大化の改新(646)があるまでは「穂の国」と呼ばれる実り豊かな地域に属し、豊川水系という地理的風土のなかで、共通する言葉や文化を育んできました。
表記で示せば正式には「穂国」ですが、近年では、「穂の国」あるいは「ほの国」と書いて親しみやすく紹介されることが多いようです。
穂国の地名は、この地方の各所から見ることができる本宮山(ほんぐうさん)が、かつて秀の山(ほのやま)と称えられ、神奈備(かんなび=神が宿るとされるところ)と崇められてきたことに由来するといわれています。
岩瀬果樹園のどこからでも眺めることができるのですが、農作業のあいだ、季節ごとに移り変わる風景のなかで、ついつい手を止めて見惚れてしまうことがあります。
今も昔も、このはろばろとした山容に、わたしたち穂の国の住民は懐かしくも清々しい気持ちを抱き続けてきたのだと思います。
東三河の人びとが、なんごで(やわらかく)、争いごとを好まず、実直な仕事を大切にし、学問を好む気質と言われているのも、本宮山の姿に見られる豊かなかたちが生み出す穏やかさが、風土のすみずみにまでゆきわたっているからなのでしょう。
豊橋市の石巻地区は、市域の北部にあって、弓張山地の山すそのなだらかな丘陵地帯に広がっています。馬越長火塚古墳を初め、大小の古墳が集中し、穂の国の時代には、この石巻地区に強い勢力をもった豪族が住んでいたことを想像させます。
また、弥生時代の大規模集落の跡(高井遺跡)が、石巻本町でみつかっており、東三河地域では最大級の規模をもっています。こうした数々の遺跡から類推されることは、石巻地区は、すでに弥生時代から、東三河地域の中心地のひとつとして大きく栄えていたということです。
岩瀬果樹園の周辺にも無数の古墳が点在しています。わけても、石巻西川町の段塚・姫塚古墳からは、飾大刀や装身具などがたくさん出土して、位の高い有力者が葬られていたことが推測されています。
「次郎柿のふるさと」と呼ばれるだけに、石巻地区の丘陵地帯には柿畑が広がっていますが、住宅地や工業用地として開発されてこなかったので、古代の遺跡がよく残されたのでしょう。
また、石巻地区に隣接する賀茂地区には、賀茂神社があり、ここの境内にも神山古墳という大型の円墳があります。
この賀茂神社も古い歴史をもつ神社で、奈良時代の天平元年(729)に京都の賀茂別雷神社からご神体を勧請して創建されたと伝わっています。
時代はくだって、永禄11年(1568)には、三河から遠州に入国する徳川家康がここに参拝しています。天正3年(1575)には、長篠合戦の出陣に際して戦勝祈願をしたといいますから、徳川家も無視できない重要な神域であったのでしょう。
境内の前には、「賀茂しょうぶ園」が広がり、5月~6月の菖蒲の花の見ごろには、大勢の観光客で賑わいます。
石巻地区の南部になりますが、石巻といえばここ、というほど豊橋市内ではよく知られた名所があります。
石巻山です。市内の小中学生ならば、ここに遠足で登山した経験をもつ方も多いでしょう。
山頂は石灰岩の巨岩で覆われていますが、標高358メートルの頂上からは豊橋平野の全域のみならず、本宮山や奥三河の山並みを見はるかすことができて、豊橋市の景観を代表するポイントとなっています。
大正時代の初年から石巻地区では次郎柿の栽培が始まります。
昭和初期には、すでに関東地区へ出荷され、好評を博していますが、昭和44年(1969)から石巻地区に県営開拓パイロット事業による大規模な柿園が造成されると、更に生産拡大が進み、現在、栽培面積約350haで全国最大の「次郎柿」産地となりました。味も生産量も日本一です。
穂の国(東三河)は、日本一の農業生産額を誇る我が国有数の農業王国として知られています。営農作物の品目だけでも100種類近くあり、単に出荷量だけでなく、種類の豊富さにおいても日本有数の農業地帯となっています。
江戸時代の後期には、東三河にも学問がよくゆきわたります。もともと学び好きだった当地の人びとは、文化・文政期(1804~1829)ともなると、庶民が全国を旅するブームに乗って諸国見聞を広めていきます。こうした人びとのなかに、牛久保村(豊川市)の河合喜八がいました。文化5年(1808)、旅先の薩摩国で知った甘藷(さつまいも)が、日照りにも強く風味もよく、救荒食物(飢饉や災害に備えて備蓄できる代用食物)には最適であると学び、ふるさとに持ち帰って栽培に成功します。のちにこれが牛久保芋となって、牛久保はさつまいもの産地となり、名古屋方面へも出荷されるようになりました。庶民のイノベーターが商品作物への道を切り開いたのでした。
さらに時代が進んで幕末に至ると、町民のなかには洋学(蘭学)も広がり、農村にも国学や農学、二宮尊徳の報徳思想などが浸透します。明治時代に入り、奥三河の稲武町(現豊田市)からは農政家の古橋源六郎が出て、農業技術の改良や農村生活の向上を指導する一方、福山滝助が鳳来町(現新城市)に三河報徳社を置いて農村改善運動に奔走するなどして、現在の農業協同組合の基礎を築いてゆきました。東三河には、このように早い時期から知的バックグラウンドのある農村生活が営まれており、農業や農村経営を理論的に考える土壌が出来上がっていました。
もともと学び好きの風土で、人材も各分野で豊富にあり、三河木材を加工する伝統技の技量も高く、職人気質が育っていました。研究熱心で地道にコツコツ積み上げる実直な気風は、やがて農業分野でも大きく花開きます。
第二次世界大戦後、食糧難の時代、豊橋市南部は、旧陸軍の演習地になっていましたので、この荒れた土地を開墾して自給食糧を作ろうということになりました。
高師原・天伯原と呼ばれる原野に、奥三河の豊根村などから数多くの入植者がやってきました。水利が悪く、植える食物といったら甘藷が中心です。電気や水道もない農家には、それはそれは筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、辛抱強く、お互いを励まし合って開拓農地を広げていったのです。そして、ここで生産された甘藷から作られたデンプンが、ゼリーなどの原材料に使われて、豊橋の菓子製造業を支え、発展させたのです。
昭和43年(1968)、水脈の乏しい渥美半島のすみずみにまで水をもたらす豊川用水が完成しました。これをきっかけに、渥美半島の先端から天伯原に至る畑地も劇的な変貌を遂げます。荒蕪地の多かったエリアが瞬く間に緑の大地に生まれ変わり、キャベツ、白菜、タマネギ、トマトほかありとあらゆる野菜やメロン、スイカ、ナシ、ブドウなど多彩な果物から電照菊などの園芸作物に至るまで、質の高い作物が大量生産されるようになったのです。いかに水利に乏しい土地で良質な作物を生みだすか、技術的な工夫を凝らし、仲間とともに日々の研鑽を重ねてきた東三河の農家には、苦労ゆえに得た知識と経験が積みあがっていました。
このマイナスをプラスに変える努力が、他のエリアには見られない圧倒的なアドバンテージを生み、次々と商品作物の開発に成功していく原動力になったのです。
しかし、この成功の基礎にあったのは、開拓の苦労とともに、種をまき、作物を育てて収穫し、大切に農作物をいただくまでの一貫した「食農文化」でした。
「食農」とは、単に地元の農作物を食べるだけではなく、育てることから農業を学び、大地の恵みに感謝の心を学ぶ取り組みのことです。暮らしのなかにあった農業。農業のなかにある暮らし。大地と切り離されない生き方。開拓の苦労が教えてくれたものは、自然への恐れや感謝、そして生き物とともにある喜びでした。
穂の国の食農文化は、日本農業の将来を大きく支える希望に満ちたポテンシャルをもっています。今後も、TPP問題ほかさまざまな難題はありますが、そこで足踏みするのではなく、農業先進地「穂の国」の伝統を活かしながら、次世代農業への新しい取り組みを積極的に進めていきたいと考えています。
近年では、農業従事者の数が年々減り続け、優れた農業生産技術も受け継がれる機会が減り、これまで築き上げられてきた食農文化も様変わりしようとしています。
これは東三河に限ったことではなく、全国的な傾向ですが、市場経済に左右される農業が、かえって食の安全や作物本来の魅力を失わせ、農業経営者も作物をいただく側もともに喜びながら「おいしい食物」を共有できる環境が危機にさらされているのです。
先人たちの努力や良き伝統を守りつつも、食の安全と安心を追究する革新的な努力をし続け、暮らしと一体となった農業から生み出される本当に「おいしい」作物を提供することが、わたしたち農業経営者には求められています。
穂の国の農業では、こうした真摯な農業経営理念をもった生産者がお互いに切磋琢磨して、農業本来の喜びを多くの方がたと共有するしくみが模索されています。
そのひとつが「豊橋百儂人(とよはしひゃくのうじん)」と呼ばれる認定のしくみです。ここでは、「農家」という単位ではなく、農業を志す「人」ひとりひとりが自立して、お互いの多様性を認め合い、市場原理だけに左右されない個性的な農業が目指されています。
「儂人」とあるように「農」にニンベンの「儂」が使われているのも、そのためです。この「豊橋百儂人」に認定されるには、数々の厳しいハードルがあり、安直に参加して認められるものではありません。岩瀬果樹園もこのしくみに賛同して、かかわっていますが、百儂人修行中の身です。
⇒「豊橋百儂人」公式サイト http://agri.aichi.jp/index.html